トヨタ自動車が「オイルショック」を境にトップ企業になったワケ
(前回のつづき)
戦後のトヨタは、「アメリカのメーカーが日本に来れば、自分たちなど一瞬で潰されてしまう」という危機感のもと、決死の覚悟でオペレーション改善に取り組みました。
提唱したのは創業者である豊田喜一郎。実現したのは、「トヨタ生産方式」の立役者として知られる大野耐一です。
喜一郎は、大きいとは言えない当時の国内マーケットにおいて、「ジャスト・インタイム」な生産体制を作ることを目標に掲げました。
つまりは「必要なものを、必要なだけ」作るというわけですが、これが非常に難しいことでした。
自動車を作るプロセスは、大まかに「機械工場で部品をつくって、組み立て工場に持って行って組み立てる」という流れ。
その途中では必ず「部品の在庫」が発生するため、作りためた部品は「中間倉庫」にストックされていました。
そこで大野が断行したのが、「中間倉庫」の廃止です。
中間倉庫では、部品がよく盗まれるという事件が発生していました。純正部品の価値は高く、街に持っていけば高く売れたのです。
すぐに使われない部品があると、生産工程として無駄なのはもちろん、盗まれる可能性が上がります。
「盗まれる部品がなければいい」ということで、大野は中間倉庫をなくし、作った部品がすぐにクルマとして完成するように要求しました。
機械工場は、組み立て工場が必要とする数だけ部品を作ろう、と考えたのです。聞くとシンプルな話ですが、これを実現するのは大変な時間がかかりました。