(前回からの続き)
1908年にT型フォードが発売されて以来、自動車産業を牛耳ったのは「フォード」「GM」「クライスラー」のビッグスリーでした。
3社合計の市場シェアは最盛期で95%と、圧倒的な寡占だったことが知られています。
寡占体制により、GMをはじめとする3社は、消費者から好きなだけ利益をあげることができました。
アメリカのクルマはどんどん大型化が進み、石油の価格が安かったこともあって、今では考えられないほど燃費の悪いクルマ(リッター3~4kmくらい)が売られていました。
一方、戦後の日本では、GHQ(連合軍総司令部)は、乗用車の生産を全面的に禁止します。
例外として許可されたのが(復興に必要な)「トラック」でしたが、それも月産1,500台までに限定。
1947年には1500ccまでの小型乗用車、1949年にはすべての乗用車が許可されたものの、ほとんどは外国車の粗悪コピーにすぎませんでした。
当時の日銀総裁だった一万田尚登は、「アメリカの乗用車と競争するのは難しいので、外国から輸入すれば十分」だと発言しました。
まだ貧しかった日本社会において、「ぜいたく品」のクルマなど、一部の富裕層だけが買えばいい、と見なされていたのです。
しかし少し時間をさかのぼれば、1931年には「外国の自動車会社に依存するのではなく、自動車の国産化を推進すべきだ」と言われていました。
国産メーカー育成のための政策が打ち出され、1936年には自動車製造事業法が制定。
すでに日本に来ていた日本フォードと日本GMの二社は、工場の新設・拡張や合弁事業を一切許されず、生産台数も年間1万台前後に制限されました。
こうしたバックアップを受けて、三菱がクルマ作りに参入しようとして失敗。他の財閥たちも、自動車生産の参入には消極的でした。
製造を許可されたのが、「日産自動車」「トヨタ自動車」「ヂーゼル自動車(のちのいすゞ)」の3社です。
しかし、1938年には軍用以外の乗用車を作ることが禁止され、その後も戦争の進行とともに減少していきました。
時はさかのぼって戦国時代、天下を統一した織田信長は、尾張の出身でした。