フォード式大量生産を疑う!常識を変えた「トヨタ生産方式」
(前回のつづき)
1933年、日本で走っていた乗用車は、ほとんど全てGMとフォードがつくったクルマでした。
外資メーカーに独占されることに危機感をもった日本政府は、1936年に「自動車製造事業法」を制定。GMやフォードは、日本における工場新設や合弁事業を禁じられ、生産台数も年間1万台前後に制限されました。
反対に、国内の自動車メーカーは認可制ながら、国を挙げて支援することが決まったのです。
こうした状況で作られたのが「日産」「トヨタ」「ヂーゼル(後のいすゞ)」の三社です。タイミングに恵まれ、トヨタ自動車は勢いよく成長します。
しかし、生産したのはほぼ全て軍用のトラック。さらに、開戦以降は材料や部品が手に入らなくなり、生産数は落ちる一方となりました。
部品不足におちいる中、トヨタは電装品やタイヤなどを自社生産する体制を整えます。
その結果、トヨタの電装品工場は拡大をつづけ、戦後には独立して「デンソー」となります。同じく作ったタイヤ工場も「豊田合成」として独立。
戦時中には軍部から「飛行機を作ってくれ」という依頼も寄せられます。
飛行機用エンジンを作るには専用の工作機械を作らなくてはなりません。そこで、豊田自動織機内の工場を独立させ、「豊田工機」という会社に。これが後の「ジェイテクト」です。
1945年に戦争が終わると、喜一郎は幹部を集め、このように言い渡しました。
「トラックと乗用車の生産はやっていくが、それだけでは皆を食わせていくことができない。そこで、衣食住にかかわる新事業を始めたい。それなら、占領軍もやるなとは言えないだろう。いくら苦しくなっても、人員の削減は行いたくない」