「三菱財閥」はどのように始まった?創始者・岩崎弥太郎の生涯③

前回の続き)

土佐藩の経済官僚として才能を見出された岩崎弥太郎は、土佐藩の「大阪商会」で手腕を発揮していきます。ところが明治政府は「藩の商業活動は民間会社の育成を阻む」として、商会を押さえつけます。

土佐藩としては大事な収入源ですから、手放すわけにはいきません。「九十九商会」と名乗らせて、私企業のように見せかけることになりました。この頃から商会の業務は、海運業へと傾いていくこととなります。

1871年になると、廃藩置県が断行されて土佐藩自体が解体。しかし、九十九商会は解散しません。名前を「三川」と変えて、商業活動を続けたのです。

「三川」は、川田小一郎、石川七財、中川亀之助という三人の「川」からとった名前。代表者は弥太郎ではなく、官職を失った旧土佐藩士のための組合的な組織でした。

弥太郎が代表でなかった理由は、事業からの「引退」を表明していたから。土佐藩が解体されて地位を失ったことで、政治家になりたいという気持ちが盛り上がっていたそうです。

しかし、弥太郎が政治家になるチャンスは得られず、ほどなくして商会のトップに復帰。こうして弥太郎は、「実業家」として人生を全うする決意を固めたのでした。

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