今回取り上げるのは、代表的な投資銀行の1つであるゴールドマン・サックスの歴史です。
ヨーロッパで伝説的な勢いを誇ったユダヤ系財閥は、20世紀の大きな国際情勢の変化についていけませんでした。アメリカが世界経済をリードするようになって覇権を握ったのは、モルガン商会をはじめとするヤンキー系金融機関。
そんな中、後発のユダヤ系資本として、ゼロからのスタートでありながらウォール街を代表する存在になったのがゴールドマン・サックスです。
今回は、ゴールドマン・サックスが創業してから業界を駆け上がるまでの約100年間について、3本立てでまとめてみたいと思います。
創立者のマーカス・ゴールドマンは、1821年にドイツに生まれました。ドイツ革命で反ユダヤの風潮が強まった1848年、同胞たちに混じってアメリカに移住しています。
有力なユダヤ資本と何の縁もなかったマーカスは、ニュージャージーで行商人として働き始め、1869年ニューヨークへ渡ります。南北戦争(〜1965)が終了後、市場金利は高く、後のコマーシャルペーパーに相当する商業手形を使って商売をはじめました。
当時の銀行は力が強く、支店がなくとも融資を求めて顧客がやってくる状況でした。マーカスは、資金を求める商人と知り合い、彼らの信用度を調べた上で、大手の商業銀行との間に立つことにしました。
ギリギリのキャッシュフローで商売を行う宝石卸商や、皮革商人などを相手に、商人の約束手形を割り引いて買い取り、商業銀行まで持って行ってわずかな利ざやを乗せて再販。
非常にささやかな商売でしたが、すぐに現金化できるゆえにリスクは低く、取引を繰り返すことで事業を伸ばしました。1882年には税引き前で5万ドルの利益に到達。今の貨幣価値で130万ドルほどですから、個人事業としては大きな稼ぎです。
羽振りがよくなったので、末娘の夫サミュエル・サックスをジュニア・パートナーに採用。商号を「ゴールドマン・サックス」に改めました。
創業から50年ほど、パートナー(共同経営者)は全員、親戚の中から選ばれました。1890年代には、アメリカで最大のコマーシャル・ペーパー業者に成長。
ニューヨーク以外の地方都市にも手を伸ばし、1897年にはロンドンの有力なマーチャント・バンク、クラインウォート家を訪れ、ニューヨークとロンドン間の金利差を使った共同事業を提案。これも軌道にのり、ヨーロッパの銀行とも取引関係ができます。当時、ロンドンの金利はニューヨークに比べてはるかに低く、こうした短期金融の活動を広げることができました。
ゴールドマン・サックスのコマーシャルペーパー事業は急拡大し、1904年の資本金は100万ドルに達しました。1907年にマーカスが亡くなると、2代目ヘンリー・ゴールドマンは「投資銀行業務に進出したい」という新しい野心を持ちます。