パナソニックの創業者である松下幸之助は、1894年に8人兄弟の末っ子として生まれた。4歳の時、父が米相場に手を出して失敗。9歳の時、大阪の八幡筋にあった宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。その3ヶ月後には船場の五代自転車店に奉公。利発で主人には可愛がられたという。店番をしながら講談本を読んだ。
大阪で走る市電を見て電気の将来性を予感、15歳で大阪電灯に転職。20歳で19歳の井植むめのと結婚した。
22歳で工事人が羨望する検査員に昇進する活躍を見せ、ソケットの改良に熱心に取り組み、試作品を作っていた(上司には酷評された)。
体が弱く、早く将来の方針を決めたかったことで独立を決意。1917年にソケットの製造販売を始めた。むめのの弟の井植歳男(のちに三洋電機を創業)にも手伝わせた。
しかし、ソケットは売れず、むめのが質屋に通うほどに困窮。そんな中で扇風機のがい盤を練りもので作ってくれという注文を受け、その出来の良さから注文が続いた。
1918年、幸之助は23歳で「松下電気器具製作所」を設立。2階建ての地下3部屋を改造し、小型プレス機2台を置いて作業した。扇風機のがい盤を作りながらも、配線器具の考案に没頭し、ついに最初の製品「アタッチメントプラグ」及び「2灯用差し込みプラグ」を考案。既製品に比べて価格が3-5割ほど安く、よく売れた。年末には20人の従業員を抱えるまで成長。
当初は生産に専念し、販売代理店に任せていたが、価格競争に巻き込まれ、思い切って問屋と直接取引きすることにし、自ら販路を切り開き、危機を脱した。
また、第一次世界大戦後の好景気の中、従業員の大切さを痛感し、毎朝、工場の前に立ち「彼は今日も来てくれるかな」と迎えるのが習慣となった。
幸之助は夜寝る時も枕元に神と鉛筆を置き、アイデアが浮かんだらメモしていた。
当時、ローソクか石油ランプがほとんどだった自転車用の灯火として電池式のランプを考案、1923年に従来比で約10倍となる30時間以上長くもつ「砲弾型電池式ランプ」を完成。
「電池式は使えない」という先入観があったため売り込みは難航したが、「いいものは必ず売れる」という信念から、小売店に無償でおいて回り、結果が良ければ買ってもらうという方法を採用。これが功を奏し、次々と注文が入り始めた。
1927年に角形のランプを完成。新聞で「インターナショナル」という文字が目につき、「ナショナル」には「国民の」という意味があることを知り、「『ナショナル』の商標をつけ、国民の必需品にしよう」と決心。販売店に1万個の見本品を無料提供するという積極的な施策を敢行し、1年もたたずに月3万を出荷するまでになった。
1929年、浜口内閣が不況打開のためのデフレ政策を始めたところに、ニューヨークに端を発した世界恐慌が波及。売り上げは半減し、倉庫は在庫であふれた。病気療養中だった幸之助は、幹部から「従業員を半減するしかない」と進言されるも、「生産は半減するが、従業員は解雇してはならない。給与も全額支給する。工場は半日勤務にし、店員は休日を返上して在庫の販売に注力してほしい」と指示した。
従業員は一致団結し、全員無休で販売にあたり、約2ヶ月で在庫を一掃、フル生産するまでに回復した。
1933年、幸之助は「事業部制」を考案。工場群をラジオ部門、ランプ・乾電池部門、配線器具・合成樹脂・電熱部門の3つの事業部に分け、分野別の自主責任経営体制をしいた。
これにより、各事業部は開発から生産、販売まで一貫して責任を持つ独立採算制となった。幸之助は体が弱く、自分で会社全体を見る限界を自覚し、早くから人に任せるようにし、任せることで人の意欲を引き出せることも学んでいた。
事業部制を戦前から開始していたのは画期的なことだったという。
1938年、12インチブラウン管使用のテレビ試作品を完成し、1939年5月に日本放送協会(NHK)の技術研究所と東京放送会館との間の無線伝送試験に成功。7月には特許局陳列館で開催された電気発明展覧会に出展し、一般に公開した。
1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。戦争が激化するにつれ、資材不足とそれによる製品の劣悪化が懸念された。幸之助は「製品自体を劣化させてはいけない」と社内で通達を出した。
あらゆる産業が軍需生産に動員される中、木製の船や飛行機の製造に携わることとなった。国の要請とはいえ、分野外の事業に進出したことが、戦後に苦難にあえぐ要因となった。
戦後には、旧軍需会社の役員として、幸之助がGHQにより公職追放されそうになった。当時、むしろ経営者を追放しようという労働組合が多い中、松下電器の従業員は幸之助の追放解除を求め、異例の処置として追放指定が解除された。
1951年1月、幸之助は「これまで狭い視野のもとに働いていたわれわれは、いまや世界の経済人として、日本民族のよさを生かしつつ、世界的な視点から経営活動をしなければならない。『わが社は今日から再び開業する』という心構えで経営に当たりたい」と、会社の再建を宣言し、自ら3ヶ月間、アメリカに視察を行った。海外に学ぶ点が多いのを痛感し、10月に再び渡米、ヨーロッパを回って12月に帰国した。
技術力を強化するための提携先として、いくつかの候補の中からオランダのフィリップ社と交渉を進めることになった。戦前から取引があり、戦後も先方から取引再開を申し込まれていたのだ。
技術指導料として売上の7%を要求されるなど交渉は難航(アメリカのメーカーなら3%だった)。幸之助は「技術に価値があるなら、わが社の経営にも価値がある」と経営指導料を要求。そうした交渉の末、両者の合弁で松下電子工業が誕生した。
日本経済が回復し、成長に入っていった1956年、経営方針発表会で幸之助は1955年の年商220億円を1960年には800億円、従業員を11000人から18000人に、資本金を30億円から100億円にするなどの「5カ年計画」を発表。
当時の民間企業で長期計画を発表する企業はなく、大きな反響を呼んだ。幸之助は「この計画は多少の波乱、不景気があっても必ず実現できる。なぜなら、これは単にわれわれの名誉や利欲のために行うのではない。われわれは大衆と見えざる契約を結んでいるのであり、これは大衆の要望を数字に表したものである。だからわれわれの働きに怠りがなければ、必ず実現できる」と奮起を促した。
結果として、この計画は4年でほぼ達成した。
1951年、パナソニックは洗濯機の製造販売を開始。当初は高価格で台数も出なかったが、量産により価格を下げ、1955年には月産5000台を超えた。テレビは1953年のテレビ本放送に先立ち、前年に販売。同年に冷蔵庫も発売した。
1956年ごろには白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれた。
1961年には輸出活動とともに、海外諸国への技術援助や海外工場の建設を推進した。パキスタン、南ベトナム(当時)、ウルグアイの現地企業にラジオ組立の指導を行ったほか、初の海外生産会社として「ナショナル・タイ」をタイに設立し、乾電池の現地生産を開始した。
また、同年に満65歳を迎えた幸之助は社長を娘婿である松下正治氏に譲り、会長職となった。
高度成長を遂げた日本への世界からの関心は高まり、タイム、ライフ、ニューヨークタイムズなどの世界的な雑誌や新聞に紹介されるようになった。1962年にはタイム誌で、表紙と5ページにわたって幸之助とその事業の沿革などが紹介された。
パナソニック公式サイト・社史:http://www.panasonic.com/jp/corporate/history/chronicle.html