【写ルンです】が大ヒット!市場規模1/10の危機を乗り越えた「富士フイルム」の歴史
今回のテーマは、使い捨てカメラ『写ルンです』でおなじみ「富士フイルム」の歴史だ。市場全体がデジタルカメラへと移行していく中、いかにして危機を乗り越えたかを解説する。
社名に「フイルム」の文字がある通り、富士フイルムの歴史は日本における「フイルム」の歴史そのものとすら言える。『写ルンです』に加え、「チェキ」として知られる『instax』、カメラのネガフィルムなどを製造・販売してきた。
かつて富士フイルムにとって、事業の中心は「フィルム」にあった。2003年度の決算説明資料によると、当時イメージングソリューションによる売上は8000億円強。グループ全体(2.5兆円)の三分の一ほどを占めた。
さらにこのうち、カラーフィルムは約25%。現像プリントも20%弱を占めた。富士フイルムは2001年に「富士ゼロックス」の株式25%を追加取得して連結子会社化し、売上規模を大きく増やしていた。つまり、それ以前はフィルム関連事業の寄与度はさらに大きかったわけだ。
富士フイルムホールディングス イメージングソリューション事業説明会(2018年3月)
そんな同社に未曾有の危機がやってきたのが2000年代。カラーフィルムの需要が下落し、2000年からの十年間で10分の1以下にまで落ち込んだ。特に2006年度以降は年率10%超の急速な下落だった。
富士フイルムは主力事業の市場縮小という危機を、どう乗り越えたのだろうか。今回の記事では、そもそも彼らがどのように生まれたかという創業の起点までさかのぼって紹介する。
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・「写ルンです」最盛期の1997年には〇〇万台販売
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