モナカアイスやinゼリー、米国ハイチュウが牽引「森永製菓」の歴史と成長戦略
森永製菓

日本を代表する菓子メーカーの一つ、森永製菓。かつて一世を風靡した「ミルクキャラメル」にはじまり、「チョコボール」「小枝」「おっとっと」など数多くの有名商品を手掛ける。

創業以来、120年以上にわたって日本で「お菓子」を扱ってきた森永製菓だが、現在の成長戦略はお菓子「以外」にある。「チョコモナカジャンボ」を代表とする冷菓事業、「inゼリー」を擁する健康事業、実は「ハイチュウ」が人気の米国事業がそれだ。

今回の記事では、森永製菓の歴史について改めて紐解いた上で、同社の現在の事業動向、そして今後の成長戦略までをご紹介する。

「陶器」の里・伊万里で生まれた創業者

森永製菓の歴史は1899年、アメリカから帰国した森永太一郎が「森永西洋菓子製造所」を設立したことに始まる。

太一郎は佐賀県・伊万里出身で、陶器問屋の実家に1865年に生まれた。幼くして父親は亡くなり、母とも生き別れに。親戚のもとを転々とする中で学校に通えず、12歳になっても字が書けなかったという。

叔父に教わって陶器商として社会に出た太一郎は、日本の「焼き物」を売ろうと23歳でアメリカに渡る。ところが売れず、代わりに巡り合ったのが「お菓子作り」の世界だ。地元のキャンディ工場で掃除の仕事をはじめ、やがて洋菓子の製造法を教えてもらうまでになった。

1899年に森永を立ち上げた時に拠点としたのは、わずか2坪の工場。はじめは販売店から相手にされなかったが、やがて銀座の著名菓子店などが西洋菓子を輸入するようになると、「国産西洋菓子」として引き合いが強まった。

1913年に「ミルクキャラメル」を発売、翌年に「ポケット用ミルクキャラメル」が誕生したことで爆発的な人気商品となった。当時チョコレートは高級な輸入品ばかり。1918年には日本初の一貫製造による国産ミルクチョコレートを発売した。

ミルクキャラメルの需要爆発は、やがて別法人として発展する「森永乳業」誕生のきっかけにもなった。原料である乳製品確保が大きな課題となる中、第一次対戦によって輸入による安定調達が難しくなった。そこで、乳製品の自給自足を目指して1917年に「日本煉乳」が設立。その後は国策の影響もあって分離合併を繰り返し、それぞれ別の道を歩んだ。

日本で「バレンタインデー」が普及したきっかけも、森永製菓にあったとされる。1960年に新聞広告を活用、バレンタインデー企画を大々的に展開したのだ。バレンタインデーとは「愛の日」であると提唱、ギフト品としてのチョコレートを市場に提案した。

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