今回取り上げるのは、広島県に本社を置く自動車メーカー、マツダ株式会社です。
2020年に創業100周年を迎える同社は、戦争によって受けた深い傷跡を乗り越え、焼け野原になった広島の復興と共に歩んできた歴史を持ちます。
直近の業績推移も見てみます。
売上高は2兆円から3兆円強にまで拡大。
2012/3期には営業赤字におちいっていますが、その後は回復しています。
本記事では、マツダが歩んできた歴史と、直近の決算数値についてまとめていきます。
1920年に「東洋コルク工業株式会社」として、広島市内で創業。当初はコルクを作る会社でした。
マツダの創業者といえば、松田重次郎氏を思い浮かべる方が多いかと思いますが、創業時は海塚新八氏という人物が社長。
しかし、海田氏は病のため、創業後半年ほどで辞任。松田重次郎氏が二代目の社長として就任しました。
1927年には「東洋工業」に名前を変え、2年後の1931年にはオート三輪「マツダ号DA型」の生産を開始。
これがマツダの自動車づくりの幕開けになりました。
同社のオート三輪はその後も長年に渡り愛され、業界を牽引する存在になります。
現在の社名である「マツダ(Mazda)」の名も、このオート三輪の名称とともに誕生しました。
当時の社長であった松田重次郎氏の名前と、西アジアの文明の発祥とともに誕生した神、アフラ・マズダー(Ahura Mazda)に由来しています。
1945年8月6日。広島に原子爆弾が投下されたこの日は、松田重次郎氏にとって70歳の誕生日でもありました。
原爆投下50分前の午前7時25分、重次郎氏は運転手の水野氏が運転する車に乗り込み、爆心地から200mほどの距離にあった散髪店に向かいました。
重次郎氏はほんの寸前まで、爆心地のすぐ近くにいたことになります。
そして、午前8時15分に原爆が投下されます。
散髪を済ませた重次郎氏は会社に向かう車の車内におり、奇跡的に難を逃れました。
東洋工業も、原爆投下により大きな被害を受けました。多くの従業員が命を失ったのです。
重次郎氏の次男である宗彌氏も広島市内で被爆し、他界しています。
大きな傷を負った東洋工業でしたが、戦後は復興に大きく貢献しました。
原爆によって県庁が崩壊した広島県に対し、工場の土地の一部を提供。NHK広島放送局もここで放送を再開しています。
原爆投下から4ヶ月後には、オート三輪の生産を再開。
復興に向け、焼け野原になった広島を走るオート三輪の姿は、当時の人々に大きな勇気を与えたといいます。
オート三輪を主力製品としていた東洋工業ですが、1950年には同社初となる四輪自動車「CA型四輪トラック」が登場。
更に1960年には「R360クーペ」で、乗用車の発売も開始しました。
1954年より始まった「全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)」の影響もあり、当時は日本中でマイカーへの憧れが高まっていました。
しかしこの時代に販売されていた乗用車はいずれも高額で、一般家庭が簡単に購入できるものではありませんでした。
そんな中で発売された「R360クーペ」はマニュアル車が30万円、トルコン車で32万円と、当時としては画期的な低価格を実現。
それまで手の届かない存在だった乗用車を手頃な価格で購入できるとあって、大衆の心をがっちりと掴み、1960年には軽乗用車の生産シェアのうち64.8%を占めるほどでした。
マイカーに憧れた人々の夢を叶えることによって、記録的な大ヒットとなります。
マツダについて語る上で欠かせないのが、1960年代に研究を行い、実用にこぎつけた「ロータリーエンジン」です。
ロータリーエンジンとは、一般的なレシプロエンジンのような往復運動ではなく、回転運動によってエネルギーを生み出すもの。
従来のエンジンよりも小型で軽量かつハイパワーなロータリーエンジンは、当時「夢のエンジン」として、世界中から注目を集めていました。
しかし耐久性などの面で大きな問題があり、実用化は不可能と囁かれていました。
長きにわたる試行錯誤の末、東洋工業がロータリーエンジンを実用化したのは、1967年のこと。
この時発売された「コスモスポーツ」は、世界で初めて実用・量産ロータリーエンジンを搭載した車として、記念すべき存在となりました。
その後もロータリーエンジンは時代とともに改良を重ね、マツダの代名詞として多くの人に愛されてきました。
2012年に生産を終了した「RX-8」を最後にロータリーエンジン車は市場から姿を消しましたが、2019年には発電用にロータリーエンジンを搭載した電気自動車の投入が予定されています。
1984年、社名を現在の「マツダ株式会社」に変更。
同社の発展の礎となった「マツダ号」と共に生まれたブランド名を、この時はじめて社名に冠しました。
1980年代後半のバブル期には、大手メーカーに追随する形で販売店を増やしていったマツダ。
しかしこの拡大路線が裏目に出て、バブル崩壊の際には3年連続で大幅な赤字を出し、深刻な経営不振に陥りました。
この危機を受け、マツダは米フォード社との戦略的提携を発表。
1996年にはフォードの出資比率が33.4%にまで引き上げられ、同社の傘下に入ることになりました。
この時社長に就任したフォード出身のヘンリー・ウォレス氏は、二本の自動車メーカーでは初となる外国人社長でした。
ウォレス氏の社長就任から2ヶ月後に発売された「デミオ」は、その年のカー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、これがマツダ復活の狼煙となりました。
その後も2002年の「Zoom-Zoom宣言」に代表されるブランドイメージの向上や、「スカイアクティブテクノロジー」と銘打った製造技術の登場などがを原動力として、徐々に業績を回復。
2015年には過去最高益を記録し、マツダ復活を印象づけました。
なお、マツダ再建において大きな役割を果たしたフォードは、リーマンショックの影響で経営が悪化し、2008年にマツダの株式の多くを売却しています。
これによりマツダは、フォード傘下からの「独立」を果たすことになりました。
さらに2015年にはフォードの元に残っていた全てのマツダの株式がすべて売却され、資本提携が解消されました。
続いて、マツダの直近の業績についてまとめます。
まずは地域ごとの売上比率です。
日本の売上比率は、2010年度の41.5%から2016年度には31.7%にまで低下。その一方、同期間に北米が26.8%から33.4%に増大しています。
販売台数の推移も見てみましょう。
日本では毎年20万台ちょっと、北米では42万台ほどが販売されています。
波はあるものの、中国での販売も伸びており、直近では29万台に達しています。
2016年3月期に最高益を達成したマツダですが、その後も販売台数を伸ばしていることが分かります。
資産の内訳
財政状態についてもチェックします。
総資産は2.5兆円ほどあり、そのうち有形固定資産が9593億円と大きくなっています。
商品在庫などからなるたな卸資産は3769億円、現預金は3981億円。
負債と純資産
有利子負債は、社債が200億円、長期借入金が3412億円、短期借入金が1244億円ほど。
利益剰余金は4453億円、資本金と資本剰余金は合わせて5000億円ほど。
キャッシュフロー
2011/3期から2013/3期まで、営業キャッシュフローはかなり減少しており、現金を稼ぐことができていませんでした。
その後は業績が上向いたことで、1000億円から2600億円もの営業キャッシュフローを稼ぎ出しています。
財務活動によるキャッシュフローが近年増加していますが、内訳はどうなっているでしょうか。
長期借入金の返済に2300億円もの金額をあてています。
借入金は、まだ合計で4600億円ほどありますから、しばらくはキャッシュフローの多くを借入返済にあてる状態が続きそうです。
営業キャッシュフローから設備投資による金額を引いたフリーキャッシュフローは、2015年度だけ1000億円を超えていますが、それ以外では多くでも700億円前後という水準。
また、今期は3Q時点でフリーキャッシュフローはマイナスとなってしまっています。
事業によって現金を稼ぐことができない状態が続けば、また借入を行って足りない現金を補填し、調子が良くなっても借入金の返済に充てないといけないということになってしまいます。
マツダのグローバル販売台数は増加傾向にはありますが、決して収益性が向上しているとは言えないように思います。
電気自動車(EV)の普及など、様々な動きが予想される中で、根強いファンがいるマツダの業績がどのように変化していくのか、今後もチェックしていきたいと思います。