今回取り上げたいのは、日本国内における「貸金業」の歴史である。
貸金業とは、名前の通り消費者や事業者に金を貸す産業だ。いわゆるノンバンクで、銀行以外によるものを扱う。日本では「貸金業法」が1983年より施行され、その中で「日本貸金業協会」の設立も定められた。
お金の誕生とともに生まれたと言われるほど、金貸しの歴史は古い。日本において、現代の消費者金融に相当する役割を担ったのが「質屋」である。
本シリーズでは、「消費者金融」という産業の始まりから過払金問題、近年の動向までについて整理したい。
古代日本では長く「物々交換」「物品貨幣」が経済の中心にあった。
奈良時代には「和同開珎」が生まれるが、原料の不足もあって徐々に信用は落ちた。結局、都や地方の一部でしか流通することはなかったのである。再び世の中は物品貨幣に戻る。
貨幣経済発展の起点となったとされるのが、平清盛が積極的に行った「日宋貿易」だ。これによって宋銭が大量に流入、「渡来銭」として流通した。
鎌倉時代にはこれが普及。こうして日本でも、貨幣経済が徐々に浸透し始める。「お金」があれば、そこに「金貸し」も生まれる。
余談だが、平清盛は当時の日本に潤沢にあったという「金」を輸出品に用いた。それがマルコ=ポーロに伝わって「東方見聞録」に記され、黄金の国・ジパングという伝説(?)が生まれるのである。
また、日本では古来から「米貸し」文化が存在していた。古代日本では「初穂」が神聖なものとして捉えられ、権力者から庶民へと貸し出された。
初穂は「神の米」であるから、お礼(利息)をつけて返済しなくてはならない。これは「初穂料」として現代にも名残がある。
その後は、主に政府が「出挙」として庶民に米を貸し出し、利息を徴収していた。貨幣が普及すれば、似たようなものが生まれても不思議ではない。
さて、日本で古くから「消費者金融」の役割を果たしてきたのは「質屋」である。このシステムは中国から渡ってきたとされ、起源は「遣唐使(西暦630〜894年)」の時代にさかのぼる。
当時、質屋は「土倉」と呼ばれ、造り酒屋などが兼業で行っていた。
しかし、金貸しは恨みを買うこともある。借金の帳消しを求める徳政一揆による襲撃を受け、結局は徳政令(13世紀末など)もあって債権を失う。
「質屋」という言葉が生まれたのは江戸時代のことだ。平和な時代の中で、庶民の生活に深く浸透した。1723年時点、正式な質屋だけで250組・2,731戸あったという。これだけでも非常に多いが、「もぐり」の質屋も入れれば、さらに数が多かったわけだ。
一般に、お金が足りない人が増えるほど、金貸しが流行る。キャッシュフローが悪いからこそ金を借りるのである。
手元に一定の持ち金があるものにとって、金貸しは利益を上げる有効な手段だった。三井財閥や三越、鴻池財閥のルーツが質屋にあるというのは、広く知られている。
江戸時代に広く栄えた「質屋」は、明治時代から昭和にかけて勢いを失う。