日本初の銀行として始まったみずほグループの歴史

概要

・1873年、渋沢栄一が日本初「第一国立銀行(のちの第一勧業銀行)」設立

・1880年、安田善次郎が「安田銀行(のちの富士銀行)」設立

・1902年、「日本興業銀行」設立

・1990年、バブル経済の崩壊により銀行再編が加速

・1999年、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行が統合を発表

・2002年、みずほ銀行スタート

創設

1873年に渋沢栄一が日本で最初の銀行となる「第一国立銀行(のちの第一勧業銀行)」を設立したのが始まり。中央銀行としての日本銀行の創設(1882年)以前だった。渋沢栄一は東京ガス、東京証券取引所など500以上の企業の設立に関わったと言われる。

1880年には安田善次郎が「安田銀行(のちの富士銀行)」を設立。安田は1866年より日本橋小舟町にて露天の両替商を営んでいた。その後、経営難に陥った中小銀行を援助、吸収し、1923年には11行が大合同をなし、日本最大の新安田銀行となった。

日本興業銀行は、1900年に公布された「日本興業銀行法」に基づいて1902年に設立。

戦後

1945年に太平洋戦争が終わると、GHQは日本をアメリカ型資本主義社会へと転換する方針を打ち出し、財閥の解体を要求した。政府系金融機関だった日本興業銀行の廃止も検討された。しかし、後に頭取となる中山素平らが、長期を見据えてリスクを取る銀行の必要性を説いたことが功を奏し存続され、1950年に興銀は特殊銀行から普通銀行となった。その後、日本は高度経済成長に突入。

バブル崩壊

1990年、大蔵省より「土地関連融資の総量規制」という行政指導が行われた。土地の取引は抑制され、地価は下落し、景気は急速に冷え込んだ。バブル経済の崩壊だった。

日本経済はデフレに突入し、事業会社の再編や法的整理が増加した。1997年には「三洋証券」「北海道拓殖銀行」「山一證券」が経営破綻。1998年大手銀行21行へ合計1.8兆円の公的資金注入が行われた。

しかし、同年に「日本長期信用銀行」「日本債券信用銀行」も破綻し、1999年再び大手銀行15行へ合計7.5兆円もの公的資金が注入された。


その一方で、1996年橋本内閣が「日本版金融ビックバン」構想を提示。三原則(フリー、フェア、グローバル)のもと「日本の金融市場を2001年までにニューヨークやロンドン並にする」という改革を提唱、都市銀行と長期信用銀行の垣根撤廃も発表された。

ちなみに、元来の「金融ビッグバン」は、1986年にイギリスのマーガレット・サッチャー首相の政権下、英国証券取引所で行われた金融改革であった。


経営統合とみずほの誕生

世界的な金融再編が進む中、1999年8月、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行の3行が、全面的統合により新しい総合金融グループを結成することを発表。「世界の五指に入る強力なプレーヤーとなる」という目標を掲げ、新しいグループの名称を「みずほ」に決定した。

その後、他の大手金融機関も追随し、「東京三菱UFJ」「みずほ」「三井住友」という3大メガバンクの形成が進んだ。


システムトラブル

2002年、いよいよ「みずほ銀行」「みずほコーポレート銀行」に再編され、新体制がスタートした。しかし、営業初日からシステム障害が発生し、ATMの一部がストップ。口座からの二重引落しや支払誤記帳、公共料金などの口座振替の遅延など、トラブルは250万件に上り、収束に数ヶ月を要した。

同年10月には竹中金融担当大臣が金融再生プログラムを提示。みずほも「変革・加速プログラム」を発表し、徹底したリストラを実施した。2006年には当初約3兆円にも登った公的資金を全額完済。ニューヨーク証券取引所に上場した。


参考資料

みずほ公式サイト

日本興業銀行100年の軌跡と証券業務(上)