菅新政権で焦点の一つになりそうなのが「地銀再編」だ。菅首相は就任前から「地方銀行の数が多いのは事実」などと発言し、再編・統合が今後進むという見通しを示した。
地銀の再編は長く議論されてきたテーマだ。国内に地銀は101行あるが、2020年3月期に本業が黒字の銀行はその3割にも満たなかったとすら言われる。
2016年2月にマイナス金利政策が導入されて以降、地方銀行の収益力は目に見えて低下した。
それに加えて地方の産業縮小、人口減少、少子高齢化と、三重苦どころか四重苦という状態が続く。地方経済が低迷する中で長引く低金利が地銀の事業モデルを崩壊させたのだ。
冷静に考えて、このままでは破綻の道しかないと考えるのが自然だろう。そんな中で必要性が叫ばれるのが「地銀再編」だ。果たしてどういうことなのか、業界の成り立ちから確認していこう。
地方銀行の多くは、1872年に「国立銀行条例」によって設立された各地の金融機関に端を発する。
時の大蔵少輔は伊藤博文。伊藤の構想によってアメリカの国法銀行制度を参考にした銀行制度の採用が決定され、渋沢栄一などの管掌のもと実行にうつされた。
名前は「国立銀行」だったが、これはアメリカの「ナショナルバンク」をそのまま和訳したものだ。実態は民間資本による「国(の)法(で設立された)銀行」で、金兌換紙幣の発行権もあった。
最初に設立されたのは四行だ。第一国立銀行(東京)は日本初の株式会社でもあり、現在のみずほグループにつながる。
第二国立銀行は横浜、第四は新潟、第五は大阪にそれぞれ設立された。大阪には第三国立銀行も設立される予定であったが、発起人がケンカしたため許可まで至らなかった。
現在も地銀には謎の数字を名前においたものが多いが、全ては国立銀行時代の名残である。1879年までに設立された国立銀行は153行にのぼる。その多くはもともと両替商だった。
銀行設立は士族の間でもブーム化した。『明治財政史』には「銀行創立は一時社会に流行し、地方商業や金融の大小を顧みず、士族は銀行を創立する義務ありと設立に奔走した(一部意訳)」と記される。
「地銀大発生」は早々に幕を閉じ、その後国立銀行の設立が許可されることはなかった。この辺りの経緯は「日本銀行百年史」に詳しく書かれており、とても面白い。
余談だが、国立銀行制度はアメリカを参考にしていたため、当初は中央銀行は存在しなかった。初めは「通貨供給」が主な目的だったが、インフレ悪性化への懸念から「通貨安定」の必要性が高まった。こうして1882年に開業したのが「日本銀行」である。