(このノートは未完なのでまた今度書きなおします)
1945年9月、創業者の井深大(当時37歳)は樋口晃、太刀川正三郎などの仲間とともに疎開先の長野県から上京し、日本橋の白木屋の3階にて「東京通信研究所」の看板を掲げた。
当初の仕事としてラジオの修理・改造を思いつき、短波放送の聞けるコンバーター(周波数変換機)を開発。戦時中には敵の放送を聞くことができないように短波を切られたラジオが多くあったので、それを改良したのだ。戦後のニュースに飢えていた日本人にとって、ラジオの修理と改良には需要があった。朝日新聞のコラム「青鉛筆」でも紹介された。
また、このおかげで消息不明だった盛田昭夫(当時24歳)から連絡があった。戦時中、軍需監督官として井深と親交のあった盛田は終戦とともに愛知の実家に戻っていたが、朝日新聞で井深の記事に気づき、すぐに手紙を送った。井深は上京を促す手紙を返し、盛田はすでに東京工業大学の講師として決まっていたこともあり、東京に来て井深の研究所に来るようになった。
1946年5月7日、20数名で「東京通信工業」を設立。戦後すぐの内閣で文部大臣を務めた井深の義父の前田多門に社長になってもらい、専務に井深、取締役に盛田などが就いた。
創業直後は資金繰りに苦しむ中、井深が2枚の美濃紙の間に細いニクロム線を格子状に入れて糊付けし、レザークロスで覆った「電気ざぶとん」を考案。温度調節機能のない危なげな商品だったため「銀座ネッスル商会」の名で売り出したが、物がない時代だったためか売れに売れた。一方で毛布や布団を焦がしたなどの苦情が多く、また電圧の上がる夜中に火事にならないかとヒヤヒヤしていた。
その後、NHKの全国の放送ネットの復旧などの仕事などを請け負うが、井深はもっと大衆に直結した商品を作ってみたいと思い、「ワイヤーレコーダー」に目をつけた。
ワイヤーレコーダーの本体を日本電気の多田正信に持ってきてもらい、バラバラに分解し、記録・再生の原理や構造を調べた。同じ頃、盛田がアメリカ人の友人からステンレスのワイヤーによるウェブスター社製のワイヤーレコーダーのキットを入手。これに木原信敏がアンプをつけて組み立て、録音できるようにした。
その頃、井深や盛田がCIE(GHQの民間情報教育局)の人からテープレコーダーを見せてもらい、ワイヤーレコーダーよりもはるかに音が良かった。二人は感銘を受け、「どんなことがあってもテープレコーダーを作りたい」と決心した。
その当時日本で誰もテープレコーダーを作っている人がいない中、磁気材料を模索。東工大の加藤与五郎博士が開発したOPマグネットをすりつぶし、それを分厚い8mmの紙にご飯粒をすりつぶして糊として、塗ったが失敗。
その後試行錯誤して、なんとか磁性粉を作ったが、それをテープに塗る方法がわからず、粉は細いほうがいいということで「おしろい」の細かさを売りにしている化粧品会社の社長を訪ねたりした。1950年にG型のテープレコーダーを完成し、「テープコーダー」という商標をとった。
彼らは意気揚々と売り出したが、みんな面白がってはくれるが買ってくれなかった。
その後、尾張徳川家の財産管理をしている「八雲産業」の社員だった倉橋が東通工のことを知り、出資することを決めた。倉橋はその時にみたG型のテープレコーダーに魅了され、「ぜひ、これを売らせてください」と頼み込んだ。井深らは支払い能力があるかわからないとためらったが、「名古屋にある尾張徳川家の財宝を担保に入れれば、1億や2億の金はすぐにできます」といい、1台12万円で50台購入。徳川候の紹介状とともにG型を見せて回ると、売値16万8000円でも「高い」という人はいなかったが、それでも売れなかった。